神戸ABCの旅(7)「G」外国人墓地

2019年9月23日に「編集長ブログ」に掲載した記事の再掲です

●第7回 「G」 外国人墓地

 シリーズ「神戸ABCの旅」ですが、第7回になりました。神戸の地名をアルファベット順に1カ所ずつ訪ねていくうちに、長らく離れていた神戸の土地勘も戻るのではないか、という企画です。このシリーズにしては更新の間隔が短いのではないかとの指摘を受けそうですが、その通りです。前回と同時に取材しました。とはいえ神戸にとっては大切な場所であるかと思います。それでは、お付き合いください。

 小学校のころに遠足で修法が原には何度も訪れておりながら、遠足で外国人墓地に立ち寄ることはありませんでした。当然ながら、現役の(?)墓地だからでしょう。普段は一般公開もしていません。ただ、外国人墓地のアプローチは普通の道路とは異なり、レンガで舗装しているので、すぐに分かります。

1玄関
レンガで舗装した外国人墓地への入り口

 修法が原から普通の舗装道路を少し歩くと、外国人墓地への分岐があります。普段は一般公開していませんが、4〜11月の第4日曜日はガイドさんが付いて案内をしてくれるそうです。ただ事前に、往復はがきによる申し込みが必要だということでした。このときは特に何の準備もしていなかったので、普段から公開されいる場所のみを、たどることにしました。ちなみに、修法が原と外国人墓地の位置関係は以下の通りです。

2案内図
再度公園の案内図 外国人墓地の位置は黄色く強調されている

 外国人墓地は最初から、ここにあったわけではないそうです。別の案内板によると神戸開港直前である1967年のクリスマスに、現在の東遊園地東側にあたる生田川尻の小野浜で最初の外国人が埋葬されたといいます。その後、小野浜の墓地が手狭になると、青谷付近の春日野(現在の中央区篭池通あたり)に新たな外国人墓地を設けたそうです。その後、市街地拡大のため春日野墓地から1952年に、小野浜墓地から1960年にそれぞれ墓石を移したことで、現在の外国人墓地が形成されたそうです。英文名称は「Kobe Municipal Foreign Cemetery」。神戸市営の施設です。

3墓地
西洋式の墓石が並ぶ

 ここが神戸にとって、いかに重要な施設であるかは埋葬されている人の顔ぶれが示しています。ここには明治以来、日本とかかわりを持った人や、その日本人妻などの2900人が眠りについているといいますが、その中には初代神戸港長のマーシャル氏、日立造船の創業者であるハンター氏(ハンター坂のハンターさん)、神戸の洋菓子を有名にしたモロゾフ氏、パン職人のフロインドリープ氏、神戸女学院の前身である神戸ホームを創設したタルカット氏、関西学院大学の創設に尽くしたランバス氏、日本初のスポーツクラブである神戸レガッタ・アンド・アスレチック・クラブを作ったシム氏らも含まれているのです。いまの神戸の街や文化が形成されるのに、先頭を切って走った人たちです。

4勇士の慰霊塔
勇士の慰霊塔

 「勇士の慰霊塔」は第一次世界大戦のとき、阪神間に住んでいた英国人とフランス人で、それぞれ祖国のために出征し、戦死した19人のための慰霊碑だといいます。この碑の脇に立っていた案内板によると「外国人団体」が1921年(大正8年)に春日野墓地で建立し、1961年に移設したものだそうです。英仏は連合国だったことから、共同の慰霊碑になったということでしょうか。

 普段から一般公開している場所は、慰霊碑の少し上にある展望台までなのですが、その展望台からは深い谷の向こうに、近代的な都市が突如として山の上に浮かび上がっているのが見えました。鈴蘭台でした。写真が撮れておらず残念なのですが、空中都市ともいえそうな、やや意外な風景でした。

 振り返ると、外国人墓地がこの地に移った後、本格的な「山、海へ行く」(六甲山を削って住宅地を造成した残土で海を埋め立てて、海にも工業地や住宅地を開発する手法)が本格化します。鈴蘭台が避暑地から住宅地への転換したのは1961年。その結果として浮かび上がった空中都市の鈴蘭台を、神戸を作った人たちはどのように眺めているのでしょうか。


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