神戸市制130周年 久元市長に聞く(1)「テクノロジーが人間らしさ作る都市に」

 神戸市の久元喜造市長は27日までに神戸経済ニュースのインタビューに応じ、同市の将来像や都市経営の方針などについて語った。久元氏は、交通網の整備や三宮再開発などを通じて、神戸市内での経済活動を活性化することが、大都市としての魅力につながるとの見解を示した。そのためには文化や芸術などの「非日常性」を振興することも必要で、優れた人材を神戸に取り込むための手段にもなるとの見方も語った。インタビューでの久元氏の発言は以下の通り。(聞き手は編集長 山本学)

--神戸の理想像をどう描いていますか。

 理想的な街の考え方は都市の規模によって違うと思いますが、人口100万人を超すような大都市にとって不可欠なのは、「成長力」と「住みやすさ」を両立させることではないでしょうか。大都市は、大都市だからこそ成長し続けなくてはならない、と思うのです。「住みやすさ」を維持したり、多くの人を引きつけたりするには「成長」が不可欠だと言ってもいいかもしれません。

 しかし、ともすれば「成長」は「住みやすさ」を置き去りにすることもあります。成長をすると、いまあるものが変わるわけです。なじんでいたもの、身近で親しんでいたものが変わっていくのは、さびしく、残念なことだと思います。そのバランスをどうやって取るか、というのが非常に大事だと私は考えています。だから都市計画、街づくりを考えるときには、都市の特性、街のあゆみ、どういうところに街の人が愛着を持っているのか、というのを常に意識しながら、街づくり・都市経営を行う必要があると思います。

 「成長」と「住みやすさ」のバランスを取る際、神戸にとって特に必要なのは「人間らしさ」だと考えています。人間らしさというと、主観的に聞こえるかもしれませんが、人間と人間との関わり合いの中で暖かい手を差し伸べあった歴史が、神戸にはあります。神戸開港以来、困難な時代であったにもかかわらず、さまざまな文化的背景を持った、さまざまな宗教や民族の方が神戸には住んでいました。

20190727久元市長1
久元喜造・神戸市長

 そういうバックグラウンドがあったため、第二次世界大戦中のリトアニアで杉原千畝が発給した「命のビザ」によって、多くのユダヤ人がシベリア鉄道でロシアを通り抜けて敦賀に入り、その大半の人たちが神戸に滞在をして、船でアメリカに逃れていきました。神戸では市民も行政も暖かい手を差し伸べたのですね。比較的最近では、やはり阪神淡路大震災の後に人々が助け合って街をよみがえらせてきたという、人間らしいあゆみというのがあると思います。

 陳舜臣さん(1924〜2015)は震災直後の神戸新聞に「神戸よ」というエッセイを寄せています。「神戸は亡びない」「もっとかがやかしいまちであるはずだ。人間らしい、あたたかみのあるまち」「自然が溢(あふ)れ、ゆっくり流れおりる美しのまち神戸よ」。私は、この文章をとてもよく思い起こします。これは多くの人の共感を呼んだのではないかと思います。

 これを現在に置き換えると、人間らしい街、「ヒューマン」な都市を造り上げていく、特に令和の時代はテクノロジーが大きく進化するでしょうから、それを活用しながら人間らしいまちを作っていくことができれば、神戸は世界の中でもとても名誉のある都市になると思います。テクノロジーは、しばしば人間を置き去りにしますが、そうではなく、テクノロジーによって人間らしさがより引き出されるような、テクノロジーによって人間らしさを作り上げていくような都市になればいいなというのが、神戸の理想像だと思います。

--「成長」とは具体的にはどういうことですか。

 成長とは単に人口が増えるということだけではなく、人間がより実質的な豊かさを獲得するための街の「あゆみ」のことだと考えています。数値化できる部分もあります。たとえば人口は1つのバロメーターです。所得、失業率、出生数、企業の収益、事業所数などいろんな指標があると思います。経済が成長し、市民の生活がより豊かになる。その豊かさが増えるのは成長でしょうね。

 一方で、成長の中には数値化できない感性に訴えるような、心理的なものもあります。たとえば子供の学力はテストで数値化を試みますが、数値化できない部分も多いと思います。同じように、さまざまな施設整備を進める場合でも、完成した施設数は数えられますが、便利さがどれだけ向上したかを正確に測定するのは難しい。そうした心の豊かさをふくめた「豊かさ」が増えていくのが成長といえるでしょう。

 とはいえ、核心にあるのは企業活動、事業活動がより活発になるということです。人間は霞(かすみ)を食べては生きていけませんから、企業活動、事業活動が活発になって個人の所得が増えることは必要です。大都市にとっては特に必要なことだと考えています。

 さらに、大都市に求められるものは、日常的な豊かさに加えて非日常性ということだと思います。毎日が平穏にすぎていくという要素だけではなく、その街に行くと何かワクワクするような雰囲気があるとか、ドキドキする瞬間があるとか、そこに行けば何か面白いことや新しいことが行われている、という一種の非日常性が、大都市において多くの人を集め続けるのに必要です。

 いま世界中の都市、特にアジア・パシフィック地域の都市は激しい競争をしているわけですが、何を巡って競争しているのかというと、優れた人材をどう獲得するのか、優れた人材をどう排出するのか、を巡って競争しているわけですね。優れた人材を集めるには「暮らしやすい」ということだけでは不十分で、そこには良い意味での刺激が必要でなくてはならない。それを非日常性と言いたいわけです。

 非日常性は、あるいは経済活動の活発さと表裏一体かもしれませんが、たとえば市民活動などを挙げても良いかもしれません。そのほか、大道芸人が活躍していたりとか、紙芝居とか、何かパフォーマンスが繰り広げられているなど、なんでもいいんです。とにかく静まり返って、ただ車がビュンビュン通過をしているだけの都市は、つまらない都市ですよね。

--「神戸に昔の輝きを取り戻してほしい」という声があります。

 昔の神戸は確かに輝いていたと思います。神戸ポートタワーができたのは1963年。ここから、およそ四半世紀の間、神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア81)が81年に成功して、その後もさまざまなプロジェクトが進んだ。この間の25年間くらいは、ものすごく輝いていたと思います。私は残念ながら、72年までしか神戸にいなかったのですが、地方行政に関わる仕事をしていたので、神戸のことは東京から、あるいは他の都市からよく見ていました。もちろん里帰りもしていました。すごく輝いていたと思います。神戸は人口が増加し、経済活動が活発化して、街がどんどん変わっていった。日本中から注目される都市経営のパイオニアだったわけです。

20190727神戸と成田の輸出入総額

 あの時代の神戸の「輝き」を可能にしたのは、やはり港からもたらされていたと思います。神戸が戦前から、ずっと港として発展をしてきた、あゆみの果実です。1980年代ぐらいまでは港が、貨物の海外との出入りを事実上独占していましたよね。港が独占していた時代から、船が飛行機に、港が空港に、役割を譲り渡していったのが、それ以降の時代だと思います。

 港が地位や役割を縮小していく時代に、港町の神戸も相対的に地位が低下したといえそうです。1970年代、神戸沖に国際空港を作るという判断をしなかったのは、少なくとも神戸の都市としての成長に、マイナスの影響があったことは間違いないと思います。世の中が港から空港の時代へと移っていた。海外から日本へ来る人の大半は、空港からという時代に変わったわけですね。あわせて物流という面でも、主要な貨物の航空便へのシフトが起きました。

 かつての神戸の輝きは、港の本来の機能が生み出していたものに加えて、港が生み出す富を上手に活用して、経済を発展させていたことにあったといえそうです。せまい可住地面積を拡大するために、山を削って土砂をベルトコンベアーで運び、海を埋め立てる。誰の真似でもない、素晴らしい発想ですよね。最先端の技術と、非常に斬新な資金調達の手法を駆使して、次々に団地を作り、「海上文化都市」を作っていった。


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